「ロボットアニメじゃないんだから」の考えまとめ

私が、とある人の「戦闘シーンが残念だったことをもってして作品として残念な評価である(と書いているように自分は読みました)」というシンエヴァレビューに対するブックマークコメントで「(エヴァは)ロボットアニメじゃないんだから」と書いたことに、想像以上の驚き、反響、中には反発もあり、わりと驚いています(他のコメントを見ると、理解してくれている人もいるけど、スター的にも、コメント的にも、驚いた人のほうが多い印象)。

そもそも何をもって「ロボットアニメ」とするべきかという部分で、おそらく個々の定義は分かれると思いますし、自分としては「それぞれいろいろな考えがあるよね」という以上のものは無いのですが(既にこれが言い訳じみているという反論はあると思いますが)、あくまでも自分の考えについて書いてみたいと思います。

「ロボット名がタイトルでも、ロボットが登場しても、ロボット、ロボットバトルが主体、本質ではなく、あくまでも世界観の材料のひとつとしてロボットが描かれている(ので「ロボットアニメじゃない」)」というのが自分の捉え方です。

コメントで「当初(テレビ版)は戦闘シーンも評価の導入指標となっていた」という意見や「テレビ版1話~2話の時点では戦闘シーンがメイン(ゆえにロボットアニメである)」という意見も見ましたが(ここは後でコメントを見てきちんとそのまま引用したものに差し替えるかも)、テレビ版で完結した時点で、や、旧劇場版をもってして、や、新劇場版で改めて完結した時点で、ではなく、自分の場合、テレビ版2話の時点で、さすがにその後のラストまでの展開は予想はできなかったものの「これはロボットアニメや特撮的な導入部をあえて作品内の流れとしてやっているだけで、本質は別にある」「1話~2話は『ロボットアニメの導入フォーマットの中にパイロットとして碇シンジのようなキャラクターを置いたらどうなるのか』という点で、ロボット以外がメイン」という印象が強くあったのです。

(初稿から追記→)

1話~2話でも、基本的な流れとしてはロボットアニメのフォーマットに則っているものの、特に出撃後、シンジが乗って出撃したエヴァが即使徒に蹂躙され、その後暴走に至る流れをそのまま描くのではなく、一旦気を失って病室で目覚めたシンジ視点に戻り、その後、一旦「エヴァ使徒から守った日常」に戻った後に、回想シーン的に「その後」が描かれる……という演出が使われている点で、既にエヴァは異質であり、ロボットアニメ的な進行、表現は、材料のひとつではあるが主体ではないな……というのが当時の自分の印象、認識でした。

(←ここまで初稿から追記)

3話以降もある程度ロボットアニメ的なフォーマットに則った描かれ方、シナリオになった回もありますが、それは「登場するロボットが主体の回のひとつ」でしかなく、作品全体としてロボットアニメには括れないのではないか、という考え。

ゆえに、戦闘シーンが残念だったことをもってして作品として残念な評価である(と書いているように自分は読みました)」とすることには、自分は違和感があるのです。

(予想はしていましたが、考えていることを全部を書こうとすると長くなるので、以下、箇条書きをしておきつつ、随時必要次第、時間あれば追記していきます)

「自分の感覚としてはパトレイバーとかと同じ感覚」

パトレイバーもロボットアニメ(漫画)ではない」

「ゆえに劇パト2は違和感なく見られたし、戦闘シーンが物足りないという評価に違和感があった」

「そもそも、エヴァパトレイバーを知らない人に紹介する時に、罠的な意図などがなく本心から『ロボットアニメ(漫画)だよ』と紹介する人っている?」

金曜ロードショーエヴァを『少年少女による成長物語』と紹介していたのも違和感があった

(未完)

(それなりにきちんと終わらせた庵野秀明はやっぱりチョー偉い!)