M-1グランプリ2022個人的な感想の話

M-1グランプリ2022、見ながら書いた一言ツイートを元に、感想、個人的評価をまとめた。

M-1グランプリは「自分と世間やプロ芸人の笑いのセンスの差を確認し、喜んだりズレを認識してしんどい気持ちになったりする機会」だと思っているのだけど、今回は自分の感覚と審査員の感覚が比較的一致した印象があって、ひとまずホッとしている。

 

■1組目:カベポスター

 

1組目にふさわしい丁寧なボケとツッコミの王道漫才。元々自分は「王道漫才」があまり刺さらないということもあって、面白さは感じたものの「王道」の枠を超えた感じがなく、個人的にはそこまで刺さらなかった。

一組目に王道が来たことで、基準にしやすいという点ではよかったと思う。

 

■2組目:真空ジェシカ

 

変化球。現実(シルバー人材センター)を舞台に設定しながら狂った世界を見せる手腕は真空ジェシカの本領発揮感。

わかりやすいボケツッコミではなく、普通の会話の流れのひとつと認識させた台詞を「シルバー川柳?」と戻って活用する仕掛けに技術を感じた。

 

■3組目:ロングコートダディ

 

センターマイクの前に並ぶという王道の位置関係を設定に活かし、奥行きを演出(松本人志が「縦の漫才」と表現)した点がよかった。

ダブルボケの応酬で手数も多く、満足度は高かったが、ネタが走って4分という持ち時間には届かなかったことを審査員の指摘で知りビックリ。

 

■4組目:オズワルド

 

敗者復活枠。やはり単に王道なだけでは自分個人としては面白くてもそこまで刺さらないのだなと再確認してしまった感。

オズワルドのフォーマットを既に知っていた点も「もうワンポイントほしい」という物足りなさを感じる結果になってしまったかなと思う。

 

■5組目:さや香

 

王道漫才のフォーマットながら、ボケツッコミのその場のワンセットの仕掛けのはずの「おとんの年齢」が伏線になって後に再び活きてくる展開に工夫を感じてドキッとした。

個人的にはそこまで好みの漫才ではないけど、M-1グランプリという場の評価基準では王道漫才の正統進化形として高得点もありそう、と感じた(実際に最終決戦進出)

 

■6組目:男性ブランコ

 

狂った設定ながら、わりとすぐに「このあとどうなるか明らかにわかる展開」を繰り返し見せて笑いにする胆力がすごかったが、自分はそこまでは刺さらなかった 。

「もう2機失ったんですけど」 という表現など、現実ならエグい状況を軽さに落とし込んで笑いにする淡々と冷静なツッコミがよかった。

 

■7組目:ダイヤモンド

 

「まともじゃない人(のボケ)」に「まともな人(のツッコミ)」が入る王道漫才。

途中から「まともなほうがまともじゃないほうに言いくるめられてしまう流れ」に期待してしまったためか(一瞬その展開も見えただけに)もうひとつ工夫があればと感じた。

 

■8組目:ヨネダ2000

 

基本的に王道の掛け合い漫才が続いた中で、リズム漫才も漫才だったと気づかせてくれた。

何が面白いのか上手く言語化できないがただただひたすらに面白い、というタイプの漫才は嫌いじゃないけどM-1グランプリの評価としてはどうなるか。

個人的には審査員の点数が想像以上に高かったのが驚きだった。

博多大吉が「配慮で(ネタの)説明したのかもしれないけど、そのまま突っ走ってほしかった」という指摘をしていて「あ、そこで自分は一瞬異次元の世界から現実に戻された(冷めてしまった)んだ」と気づけた。

 

■9組目:キュウ

 

設定演出の都合上、ツッコミ側がボケのツッコミポイントに気づいてツッコミを入れるまでの時差があり、見てる側にも一連のボケツッコミを理解するまでの時差があることを考えると、テンポが悪く感じた。

 

■10組目:ウエストランド

 

どんどんやべえ悪口とイカれた思想が出てくる展開にワクワクと笑いが止まらない。

悪口系のお笑いは賛否両論あると思うけど、それが悪口だと認識したうえで、それでも思わず共感して笑えてしまうお笑い、必要だと思う。

富澤たけしが「みんな共犯」と評していたのが印象的だった。

審査員も現代でこれを評価する難しさはあったと思う。

 

■最終決戦:ウエストランド

 

くじ順で実質2連続の流れになった幸運もあるとはいえ、決勝と同じフォーマットを使うことで導入を省き、決勝の熱量を冷ますことなくそこを起点にしてさらに駆け上がってみせた凄さ。

このネタのフォーマットを考えた時点で勝ちだったかもしれない、これは優勝ある、とこの時点で感じていた。

 

■最終決戦:ロングコートダディ

 

決勝で見られた「王道漫才からのもうひと工夫」が最終決戦ではほとんど見られず残念。ウエストランドが凄すぎたこともあり、正直あまり印象に残らなかった。

 

■最終決戦:さや香

 

さや香の最終決戦ネタも、決勝で見られた「戻ってツッコむ伏線」がなく、その場その場のボケツッコミに終始してしまったように感じた。

ここでもまたその話をしてしまうが、世界観や設定の導入不要で熱量そのままでやれたウエストランドが強い。

 

■優勝:ウエストランド

 

個人的には、他のコンビもそれぞれ良さがあり、単純にネタ勝負だけなら甲乙つけがたいが、熱量を冷ますことなくそのまま駆け上がったウエストランドの優勝は納得感しかない。

平場でどうなるか、ウエストランドの悪口ネタが今まで以上に急激にメジャー化してどうなるかという不安はあるけど、それはこれからの話だと思う。

 

クローズアップ現代の新海誠監督回の取材を受けた話

本日(2022年12月12日)放送された「クローズアップ現代〜"物語"にできることを探して 新海誠監督と東日本大震災〜」、事前に「東日本大震災被災経験者」として取材申し込みがあり、基本的にメールで回答していました。

すずめの戸締まりに対するネットでの賛否を受けて、震災体験者を含めた人々の生の声を聞いて、それを番組にしたい、現実の被災者の取材と並行して、ネットで感想を発信している人にも話を聞きたいという依頼でした。(実際の放送は、一部推測ですが、取材陣の取材内容をキャスターに伝える→キャスターと新海誠監督の対談の題材に活かすという形になりました。30分番組という短さでは全ての声を拾い上げるのは難しく、以下、自分でも我ながら引いてしまう長文のやりとりをしていますが、これは仕方ないと思っていますし納得して取材に答えています。むしろ取材陣含めて、番組制作者の企画立案→取材→番組収録→放送までの仕事の速さに驚きました)

 

取材事実の公表、取材内容の公表について、了承を頂いているので、以下、メールで答えた内容を基本的に自分が書いたものについてとりあえずほぼベタ貼りします(あとで再編集するかも)。

とりあえずほぼベタ貼りである都合上、読みづらく、長く、一部内容が重複したり、作品批評とは関係ない話もあります(なのでやっぱりあとで再編集するかも)。

 

▼すずめの戸締まりを見たときの思考の流れ

 

明確に事前に知覚していたネタバレは、新海誠監督作品、ポスタービジュアル、1分程度の予告編のみです。
制作発表のニュース等は見たと思いますが、テーマや具体的な内容はあえて調べずに、また、調べなくとも流れてくるネットの情報も可能な限り遮断して見ました(この点で既に他の作品にはない期待感があったのは間違いありません)。
公開日を迎えてしまうと、それらの情報の遮断はいよいよ難しくなるので、公開日(金)の翌日(土)の深夜回に見ました。

思考の流れですが
・最初の鈴芽の夢(実体験の記憶)の映像で「お、これは震災をテーマにしてるな?」という予感
・学校での地震のアラートシーンで予感は確信に
【この時点でおそらくもう自分はエンタメを求めてない】
・封印を解いてしまったあとから中盤に至るまで、客観的(見ている側)には何かはわからなくても明らかに大変なことになっているのに危機感を感じられない(ように見える)鈴芽に対する苛立ち
【この時点では「セカイ系のよくないところ出てるぞ」くらいの感覚】
・上述の思考の結果、途中、随所に挿入される「エンタメであろうとするユルいシーン」(鈴芽と椅子になってしまった草太の掛け合いシーン、スナックのカラオケ、ドライブ中の朋也の歌唱など)に対する苛立ち
・災害(地震)の原因とそれを止める手段の設定(閉じ師)に対するモヤモヤ
・中終盤、草太と別れてしまうことで、ようやく鈴芽もシリアスな状態になるが、これも「世界(の危機)は見ておらず、あなた(草太)しか見ていない」というセカイ系の悪いところを本領発揮してしまった展開で苛立ちは最高潮に……
という感じです。

環さんの感情が爆発するシーンも、「内心の言えなかった本音」ではあるのだけど、それがあまりにもあっさりと取り憑かれていたから言ってしまっただけかのように描写され、しかもあっさりと和解できてしまったように見えて、これは自分自身の体験ではないのですが、震災でそういう関係になった人に思いを馳せてしまいました(これは実際周りに複数いて、上手くいってる人もいますが、お互いにまたはどちらかが我慢して体裁上は関係が続いているだけのパターン、本音が爆発して険悪になるパターンもあります)

日記のシーンについては、黒か白か、また「黒く塗りつぶす時間あった?」というよりは、「思い出したくない記憶としての塗りつぶされた日記という描写なら、日付いる?」という感じで、これは繰り返しになりますが「それそのものを描写しなくても伝わるものはあるしそれを新海誠監督はやれるはずじゃなかったのか」という感覚です。

 

▼思考実験

 

思考実験として、すずめ〜で扱われる災害が仮に自分の経験したことがない別のもの(事実、創作問わず)だった場合、つまりエンタメ作品として純粋に評価することを想像した場合(この仮定を想像することより、震災を自分が体験してないと仮定することが難しいのですが)、やっぱりすずめ〜は自分基準評価では「名作」か「駄作」かで言えば駄作だと思います。
震災抜きに本作を見た場合に、新海誠監督は相変わらず「セカイ系」の悪しき部分、具体的には「私とあなたの物語に終始するご都合主義」を脱却できていないように感じたからです。
良い意味でも悪い意味でも「セカイ系」と評される新海誠監督なりの思考結果なのかもしれませんが、すずめ〜は過去作よりもかなり意識的に「わたしとあなた、以外の人々との触れ合い」を盛り込んでいるように感じていて、しかし、物語の根幹がセカイ系であることは変わっていないので、ここに絶望的な相性の悪さが出てしまったのでは、と。
自分の震災の話に戻り、また、絡めると、名作要素の「見ている自分自身ではないのに、登場人物になったかのように共感できる物語」が描けておらず「ただ、登場人物が1人2人で本人起因の偶然から危機に立ち向かい、解決し、2人が幸せになった、ただそれだけの物語」のように感じ「鈴芽は偶然の出来事から結果的に救われたけど、他の、あの世界にもいるであろう救われていない人はどうすれば……(そして、現実の震災を明らかにそのまま扱った以上、こちらの世界にもそういう人はいる)」と感じてしまったのです。

上手く伝えられているかわかりませんが、純粋な作品としての失望と、震災の扱い方に対する失望と、両方であるということが伝わりますでしょうか。

 

▼「分断」「当事者/非当事者」について

 

結局は「いろいろな人がいる」というところに帰着するのかなとは思いますし、自分の「致命的な断絶」は極論なのかもしれませんが、新海誠監督が崖の向こう側の人間だった(ように作品を見る限りは自分は評価せざるをえない)のは、新海誠監督のそれまでの作品が好きだった自分にとってはショックでした。
とはいえ、他の「好き」にも言えることですが、これで「ファン辞めます!」とか「過去作含めて新海誠全部ダメ!」とも思わないので、新海誠監督には懲りずに(?)アニメを作り続けてほしいなと思っています。

 

新海誠監督の思い

 

入場特典だった「新海誠本」、また、他のインタビュー等を見た限り、これが新海誠監督なりの現時点での向き合い方、伝え方だったんだろうということは否定できず、それゆえに、自分としては勝手に期待していた立場ではありますが、残念という気持ちです(理由は上述のとおりです)。

 

※ここからは基本的にはやりとり初期の「取材対象者を掘り下げるための質問に対する答え」です(一部新海誠監督の話もあります)。なので、自分の好きなジャンルの話とか作品の話とか創作に対するスタンスとか、自分自身を改めて見つめる作業のような感じで、恥ずかしくもありますが、一応そのまま掲載します。ここから掘り下げる形でやりとりが続き、最終的に上述のような回答になりました。(本当に初期のやりとりの個人情報的な部分、被災体験、被災場所などのやりとりについては除外しています)

 

▼創作作品について

 

好きです。作品媒体もジャンルも基本的には問いませんが、最近は小説や漫画はあまり読めておらず、映像作品が中心です。

 

▼好みの方向性について

 

特に「シリアス」「暗め」「ミステリー」が好みですが、「ギャグ」「明るめ」「王道エンタメ」も見ます。

「なろう系」は「ご都合主義が過ぎる」と感じて避けがちです。
恋愛系も積極的には見ません(王道ほど構造がベタに見えるから)。

 

▼オールタイムベスト

 

本気で考えたらこれだけで一晩かかりそうな質問ですが、影響度合いでいうと
・アニメならエヴァンゲリオン(TV版、劇場版、新劇場版全て)
・漫画=レベルE冨樫義博
・小説=アルジャーノンに花束をダニエル・キイス
・日本のドラマ=「ケイゾク」「SPEC」
・邦画=容疑者Xの献身
・洋画=JOKER(LEONと悩む)
でしょうか。

 

▼ドキュメンタリー、ルポルタージュについて


好きです。
「ザ・ノンフィクション」はよく見ます。 しかし、ひねくれているためか、「見えてるものは取材対象に対する切り口のひとつ(見え方のひとつ)でしかない」と思っていますし、映像の場合特に「カメラが回っている時点で素はありえない」と考えてしまいます(隠さなくてもカメラを意識させず真の本音で語らせる取材能力に取材者のセンスが出ると思います)。

 

▼リアリティについて


個人的にはリアリティはリアルでなくて良くて、「現実」と「現実感」は別で、「現実感」が大事と思っています。ここらへん、言語化が難しいですが、「説得力」「ハッタリ力」「勢い」という感じでしょうか。

 

▼新海監督の過去作の災害表現について


他作品の災害表現と同様にすずめ〜ほど気にはなりませんでした。
新海誠監督が震災の影響を受けた上で意識的に表現したものであっても、震災そのものではない比喩であるうちは自分自身としてはエンタメとして消費できた感があります。​
(「比喩、創作ならエンタメとして消費できる自分」という葛藤は、震災に限らずあります。極端な例ですが「身内が密室トリックで殺された人は密室トリックミステリを楽しめないだろうな」とか)

 

▼すずめ〜の場合

 

震災の被災地そのままの表現や地震のアラート演出を経て、物語終盤の日記の日付が3月11日である点が、自分の中ではわりと致命的で「超えてはいけないライン」だったように思います。
「震災の素材化に対する残念感」はあるのですが、それ以上に「今までの新海誠監督なら"隕石衝突"や"止まない雨"という"ないことではないがある種のファンタジー"で間接的に表現してきたはずという残念感」という感じです。

 

▼実話と虚構のバランスについて

 

見た人が明確に元素材がわかるというだけで、そもそも話の軸がファンタジー(虚構)であることはわかるので、「新聞記者」の問題や「感動の実話!と宣伝される作品」とはベクトルが逆で、「実話に虚構を混ぜ込まれた残念感」ではなく「虚構に実話を混ぜ込まれた残念感」なのかなと思っています(ここらへんも言語化が難しい……)。
創作作品に「リアルでなくてもリアリティがあれば良い」と思いながら、すずめ〜には「そこにリアルはいらない」と思っている自分がいて、そして結果的に「リアルが混ぜ込まれたことで(自分にとって)リアリティが失われてしまった」ということなのかな、と。

 

▼他作品について

 

【震災以外は(完全/部分的)創作】は「かつおNHK)」「あまちゃんNHK)」、【震災の実話を元にした作品】は「河北新報のいちばん長い日(テレビ東京)」「ラジオ(NHK)」などを覚えていますが、これはある意味内容が逆に自分にとっては悪く言えば「無難」、前向きに言えば「誠実」だったからかもしれません。酷いと感じたはずのものは結果的に忘れてしまっている不思議。
(自称「ドキュメンタリー」ですら、後に仕込みがバレたりしてる酷い世界なので、意外と淡々と見てた気もします。それだけにすずめ〜に対する自分の感情は我ながら驚いています)
【震災は出てこないが影響は受けたと想像できる作品】は、シン・ゴジラが凄すぎて、他の震災後の作品も、意識的にせよ無意識にせよ影響は受けていると思うのですが、これも沢山あったはずの酷い作品は結果的に覚えていません。震災そのものが出てこないことにより、結果的に自分自身はエンタメとして消費している作品はあると思います。

 

▼「断絶」について


自分自身も口では「諦めた」と言いつつ、ずっと模索しています。一緒に模索してくれる人、共感してくれる人もいる一方、他の人も過去の実体験が生きているのかなとネガティブに思ったりしてしまいます(他の災害の経験者を自称する人でも、自分からすると「わかってない」と感じてしまう人もいます)。
また、自分がすずめ〜を見て、感想を書いたあと、他の人の感想を見て回って、単純にエンタメ視点で絶賛している人を見るとモヤモヤしてしまいます(自分のように素人のネットの落書きならモヤモヤで済みますが、プロライターでそういう人を見ると「浅い!軽い!わかってない!」と叫びたくなります)。
これは想像でしかありませんが、新海誠監督の狙いを都合良く解釈するなら「やっぱりみんな忘れてるよね?(だからストレートに描きました)」ということなのかなと思ったりもします。

 

▼新海監督の過去作について

 

過去の長編作品は個人制作の時代から全て見ています。(ショート作品やCM向け作品はチェック漏れがあるかも)
個人的評価は良くも悪くも「セカイ系」の人で、セカイ系特有のご都合主義がありつつも、そのご都合主義を圧倒的に美しい描写と、ファンタジーやSFの設定、「私とあなた」にひたすら焦点を絞ることで(ここはセカイ系の良さ)「創作=虚構」でもリアリティのある物語を表現できる人、創作の可能性を拡げることができる人、その可能性の到達点が現時点で「君の名は」ではあり「天気の子」である、という認識です。

 

▼他の表現作品で東日本大震災を描いたもの

 

シンゴジラは、個人的にはすずめ〜から受けた「軽さ」の印象との比較(重さ)として、真っ先に思い出した作品です。
オリジナルの「ゴジラ」の設定自体もあるとはいえ、「基本的にコントロール不能な大災害」「物語を畳む都合上の解決策に対する納得感」「それでもラストカットでコントロールを認めない姿勢」など「震災そのものは扱わないが、確実に制作内容が震災の影響を受けたであろう作品」の中では個人的にベスト作品です。
これらを対比した場合に、「人間がコントロール可能なもの」「しかも1人あるいは2人が」「結果、勝手に2人で解決して2人だけが前を向く」(ように自分は感じた)すずめ〜は、どうしても「軽い」と感じてしまったのです(ここが前述の「セカイ系のご都合主義の悪いところ」です)。

おかえりモネは申し訳ありませんが視聴しておりません。

他の「震災そのものを扱った作品」については、震災以外は完全創作、震災の実話を元にした作品、震災は出てこないが影響は受けたと想像できる作品など、それなりに見ていますが「これはちょっとファンタジー(創作)が過ぎる」と感じることはあっても、すずめ〜ほど「これはダメだ」と思ったことはありません。「実際に見た人と間接的に知った人の差」に対して諦めの感情がある自覚もありながら、それでも「これはダメだ、言わずにはいられない」と感じたという点では、すずめ〜はある意味凄い作品だと思います(商業作品としては褒めてます)。

書きながら思い出したのですが、あまちゃんの「津波そのものは描かず、その光景を見た人の表情で伝える」手法は、作る人(宮藤官九郎氏)の凄みを感じました。

あの震災と真正面から向き合ったにしては、あまりにも"軽さ"が際立った「すずめの戸締まり」

新海誠監督作品ということとあらすじ以外は、ほぼ事前情報無しで見ました。
東日本大震災に影響を受けていないクリエイターはいないと思いますし、新海誠監督も間違いなく影響は受けていると思いますが、物語の中で災害表現を扱うことはあっても、ファンタジー的、SF的な要素に置き換えて表現されていたこれまでの作品から一転、本作は東日本大震災がかなり意識的に素材になっていて、オープニングの夢の中の光景、序盤から頻繁に鳴る緊急地震速報のアラートなど、「ファンタジー的な要素への置き換えではなく震災そのもの」が表現されているのですが……。
その結果として、物語の中の「ファンタジー要素」である「大地震や大災害の原因の設定」「その原因を人が、ましてやその仕組みを知る1人、あるいは数人が抑え込める設定」に対するモヤモヤ感が残ります。
自然や神に人類が立ち向かう物語、その結果人類が最終的に勝利する物語は創作ファンタジーのある種の王道でもありますが、現実にあった震災を明らかに意識的にそのまま下敷きにされると、見る側の意識も変わってきます。
「とは言ってもそもそも全部が創作でしょ」と思おうとしても、本作では災害描写、被災地描写がかなりそのままの形で描かれていて、ファンタジー的な置き換えは行われていません。
何より致命的だと感じたのが、終盤、子供の頃の絵日記が登場するシーンでそのページ以降真っ黒なクレヨンで塗りつぶされている最初のページの日付があの日である点。
日付まで明確に同じ描写をしなくても、序盤中盤で東日本大震災が素材になっていることははっきりとわかるはずです。素材そのものを使わなくても、それを意識させる表現ができるはずなのが、創作、ファンタジー、アニメーション、そして新海誠監督の本来の力であり魅力ではないのか……と。
また、本来物語に緩急をつけるための「軽さ」が悪目立ちしているのも気になってしまいます。
エンタメ作品であろうとしたためか、序盤中盤終盤、隙あらば随所に挟まるゆるい会話シーン、素人っぽい(そういう演技の)カラオケ歌唱シーンは緊張感を削ぎますし、創作の中で基本的にはどうしても必要な「ご都合主義的に動く人々」「ご都合主義的に優しい人々」も本作で多数登場しますが、本当にご都合主義に見えてしまいます。
東日本大震災で作中の主人公と似た体験をした私にとってあまりにも重すぎたというのはあるにしても、とにかく全体的に軽い印象になってしまっている感は否めません。
これはあくまでも私の感想であり、同じ体験をした人でもまた感想は違うのかもしれませんが、震災以降ずっと感じていたものの最近は忘れていた「あの日、あの海を、あの町を、目の前で見た人と、テレビの画面越しに見たり伝聞で聞いた人とは、捉え方の致命的な断絶があるのではないか?」という気持ちがまた蘇ってしまいました。
災害描写、アラート描写などに対する配慮は個人的には他の表現も含めて原則不要(子供への配慮は必要だと思いますが、それも周りの大人がコントロールして場合によっては説明してあげることが大事だと思っています)だと考えているので「表現者が表現したいものを表現したうえで、見る側がそれに共感できるか、容認できるか、肯定できるか判断すべき」と思いますが、「新海誠監督が表現したいものを表現した結果」がこの作品というのは、私は残念でした。
私の勝手な想像上のおこがましい願望でしかありませんが、新海誠監督には、もっと創作、ファンタジー、アニメーション、そして見る側の力を信じてほしいなと思います。信じることができれば、こんなにも素材そのもののストレートな描写をしなくても、伝わるものはあるはずです。

 

 

「ロボットアニメじゃないんだから」の考えまとめ

私が、とある人の「戦闘シーンが残念だったことをもってして作品として残念な評価である(と書いているように自分は読みました)」というシンエヴァレビューに対するブックマークコメントで「(エヴァは)ロボットアニメじゃないんだから」と書いたことに、想像以上の驚き、反響、中には反発もあり、わりと驚いています(他のコメントを見ると、理解してくれている人もいるけど、スター的にも、コメント的にも、驚いた人のほうが多い印象)。

そもそも何をもって「ロボットアニメ」とするべきかという部分で、おそらく個々の定義は分かれると思いますし、自分としては「それぞれいろいろな考えがあるよね」という以上のものは無いのですが(既にこれが言い訳じみているという反論はあると思いますが)、あくまでも自分の考えについて書いてみたいと思います。

「ロボット名がタイトルでも、ロボットが登場しても、ロボット、ロボットバトルが主体、本質ではなく、あくまでも世界観の材料のひとつとしてロボットが描かれている(ので「ロボットアニメじゃない」)」というのが自分の捉え方です。

コメントで「当初(テレビ版)は戦闘シーンも評価の導入指標となっていた」という意見や「テレビ版1話~2話の時点では戦闘シーンがメイン(ゆえにロボットアニメである)」という意見も見ましたが(ここは後でコメントを見てきちんとそのまま引用したものに差し替えるかも)、テレビ版で完結した時点で、や、旧劇場版をもってして、や、新劇場版で改めて完結した時点で、ではなく、自分の場合、テレビ版2話の時点で、さすがにその後のラストまでの展開は予想はできなかったものの「これはロボットアニメや特撮的な導入部をあえて作品内の流れとしてやっているだけで、本質は別にある」「1話~2話は『ロボットアニメの導入フォーマットの中にパイロットとして碇シンジのようなキャラクターを置いたらどうなるのか』という点で、ロボット以外がメイン」という印象が強くあったのです。

(初稿から追記→)

1話~2話でも、基本的な流れとしてはロボットアニメのフォーマットに則っているものの、特に出撃後、シンジが乗って出撃したエヴァが即使徒に蹂躙され、その後暴走に至る流れをそのまま描くのではなく、一旦気を失って病室で目覚めたシンジ視点に戻り、その後、一旦「エヴァ使徒から守った日常」に戻った後に、回想シーン的に「その後」が描かれる……という演出が使われている点で、既にエヴァは異質であり、ロボットアニメ的な進行、表現は、材料のひとつではあるが主体ではないな……というのが当時の自分の印象、認識でした。

(←ここまで初稿から追記)

3話以降もある程度ロボットアニメ的なフォーマットに則った描かれ方、シナリオになった回もありますが、それは「登場するロボットが主体の回のひとつ」でしかなく、作品全体としてロボットアニメには括れないのではないか、という考え。

ゆえに、戦闘シーンが残念だったことをもってして作品として残念な評価である(と書いているように自分は読みました)」とすることには、自分は違和感があるのです。

(予想はしていましたが、考えていることを全部を書こうとすると長くなるので、以下、箇条書きをしておきつつ、随時必要次第、時間あれば追記していきます)

「自分の感覚としてはパトレイバーとかと同じ感覚」

パトレイバーもロボットアニメ(漫画)ではない」

「ゆえに劇パト2は違和感なく見られたし、戦闘シーンが物足りないという評価に違和感があった」

「そもそも、エヴァパトレイバーを知らない人に紹介する時に、罠的な意図などがなく本心から『ロボットアニメ(漫画)だよ』と紹介する人っている?」

金曜ロードショーエヴァを『少年少女による成長物語』と紹介していたのも違和感があった

(未完)

(それなりにきちんと終わらせた庵野秀明はやっぱりチョー偉い!)

 

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」感想

感想文お約束の注意書き

以下、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のシナリオ、物語そのものには結果としてほとんど触れていませんが「エヴァンゲリオンシリーズそのもの」について語ることで内容を推測可能な表現をしているところが多々あります。ネタバレになる可能性が高いと思われますので、これから見る方とはここでお別れです。ネタバレ上等、あるいはもう見たよという方のみ読み進めてください。

本編前の穴埋め的余談

東京は現在もコロナ禍かつ緊急事態宣言下であり、映画館そのものの感染リスクは低いにしても、できるだけ混雑は避けようと思い、本日平日金曜日の朝7時15分の回を取ったのですが、蓋を開けてみれば99%の座席が埋まっていました。映画館の開場自体朝7時からだったので、開場前に自然と行列が形成され、結果的に平日早朝にもかかわらず旧劇場版公開当時のような独特の空気になっていました。

エンタメ化したエヴァエヴァなのか?

まず、前提として「エンタメ」の定義は人それぞれあると思いますが「万人に受け入れられる大衆娯楽」的な意味合いと自分は解釈しています。
……そのうえで。
エヴァンゲリオン新劇場版の制作が発表された当時、庵野氏本人の発言だったかは忘れてしまいましたが、制作サイドから「新しいエヴァは新しいエンタメ作品を目指します」というような趣旨の発言があり、「新しいエヴァが見られる」という期待感と共に、自分は正直不安を感じてもいたのです。
「エンタメ化したエヴァができたとして、それって本当にエヴァなのだろうか?」
やがて「序」が公開され、「破」が公開され、シナリオ自体はほぼテレビ版の再構成ではあり、随所に「エヴァらしい不穏な空気」はあるものの、きちんと「エンタメとして凝縮されたエヴァ」を見て、それなりに満足はしたものの、やはり自分の心のモヤモヤは晴れることはありませんでした。地上波(金曜ロードショー)で新エヴァが放送された時の予告ナレーション「少年少女たちの成長物語」にも、ただただ違和感しかなかったのです(Qですら同じ紹介文なので「こう言うしかない」のかもしれませんが)。

序破急+?」→「ヱヴァ序破Q+エヴァ新劇場版」

破のラストの次回予告で、元々「急」として発表されていたものが「Q」に変更されているのを見た時、自分はこの「Q」を「庵野氏からファンへの問いかけ=question」だと考えました。
「序、破のようなエンタメに特化したエヴァエヴァらしいと言えるのか?」
「みんなが望むエヴァらしさってなんだ?」
「みんなが求めるエヴァは、旧エヴァなのか?新エヴァなのか?」
その「問いかけ」の結果が「Q」の本編に繋がっているのではないか、という予想は、結果としてはスジが通っているように思います(正解かどうかは本人の本音を聞かないとわかりません)。

問いかけの結果

そんな「問いかけのQ」を経て制作された(と自分は考える)完結編「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」は、「序」や「破」と比較すると結果として明らかにエンタメ性が失われているのにもかかわらず、その代わりに詰め込まれた「エヴァらしさ」は、「エヴァらしくはありつつもただただ不親切なだけの印象だったQ」と比較しても、過剰なほどにエヴァらしく「サービスサービスぅ!」された作品になっていたと感じました。
これが「庵野総監督の考える理想のエヴァらしさの結果」なのか「庵野氏の理想とは関係なく、想定したファンに向けたファンサービスの結果」なのかはわかりませんが……。

エヴァの呪い

エヴァの呪いに自分を含めた多くのヲタクが罹っていろいろなものをこじらせてから20数年、自分は完結編を見て、ついに呪いが解けた実感があります。まだ一部しか読めていませんが、実際、感想でその感覚を吐露している人も多く、大半の人の呪いを解くにはじゅうぶんな熱量の作品だったと思います。「これで呪いが解けない旧エヴァファンは知らん」みたいな姿勢が旧劇場版と同様に今の庵野氏にあるのかどうかはわかりませんが、まあ、そうだよね、とも思います。そもそも新劇場版の完結編に至るまで呪いが解けなかった時点で既に相当こじらせているので。
懸念があるとすれば、数としてはそんなにはいないんじゃないかとは思っているのですが、特に新しい世代の人で「新劇場版からエヴァに入り、旧エヴァ、旧劇場版を知らないままQと完結編を見てしまった人」は新たに呪いに罹ってしまったのではないか、という点くらいです。あまり見る機会がないのですが、旧エヴァを知らない人や世代が新エヴァを見た感想をもっと読みたい。
(とりあえず一旦ここまで、気が向いたら追記するかもしれません)