クローズアップ現代の新海誠監督回の取材を受けた話

本日(2022年12月12日)放送された「クローズアップ現代〜"物語"にできることを探して 新海誠監督と東日本大震災〜」、事前に「東日本大震災被災経験者」として取材申し込みがあり、基本的にメールで回答していました。

すずめの戸締まりに対するネットでの賛否を受けて、震災体験者を含めた人々の生の声を聞いて、それを番組にしたい、現実の被災者の取材と並行して、ネットで感想を発信している人にも話を聞きたいという依頼でした。(実際の放送は、一部推測ですが、取材陣の取材内容をキャスターに伝える→キャスターと新海誠監督の対談の題材に活かすという形になりました。30分番組という短さでは全ての声を拾い上げるのは難しく、以下、自分でも我ながら引いてしまう長文のやりとりをしていますが、これは仕方ないと思っていますし納得して取材に答えています。むしろ取材陣含めて、番組制作者の企画立案→取材→番組収録→放送までの仕事の速さに驚きました)

 

取材事実の公表、取材内容の公表について、了承を頂いているので、以下、メールで答えた内容を基本的に自分が書いたものについてとりあえずほぼベタ貼りします(あとで再編集するかも)。

とりあえずほぼベタ貼りである都合上、読みづらく、長く、一部内容が重複したり、作品批評とは関係ない話もあります(なのでやっぱりあとで再編集するかも)。

 

▼すずめの戸締まりを見たときの思考の流れ

 

明確に事前に知覚していたネタバレは、新海誠監督作品、ポスタービジュアル、1分程度の予告編のみです。
制作発表のニュース等は見たと思いますが、テーマや具体的な内容はあえて調べずに、また、調べなくとも流れてくるネットの情報も可能な限り遮断して見ました(この点で既に他の作品にはない期待感があったのは間違いありません)。
公開日を迎えてしまうと、それらの情報の遮断はいよいよ難しくなるので、公開日(金)の翌日(土)の深夜回に見ました。

思考の流れですが
・最初の鈴芽の夢(実体験の記憶)の映像で「お、これは震災をテーマにしてるな?」という予感
・学校での地震のアラートシーンで予感は確信に
【この時点でおそらくもう自分はエンタメを求めてない】
・封印を解いてしまったあとから中盤に至るまで、客観的(見ている側)には何かはわからなくても明らかに大変なことになっているのに危機感を感じられない(ように見える)鈴芽に対する苛立ち
【この時点では「セカイ系のよくないところ出てるぞ」くらいの感覚】
・上述の思考の結果、途中、随所に挿入される「エンタメであろうとするユルいシーン」(鈴芽と椅子になってしまった草太の掛け合いシーン、スナックのカラオケ、ドライブ中の朋也の歌唱など)に対する苛立ち
・災害(地震)の原因とそれを止める手段の設定(閉じ師)に対するモヤモヤ
・中終盤、草太と別れてしまうことで、ようやく鈴芽もシリアスな状態になるが、これも「世界(の危機)は見ておらず、あなた(草太)しか見ていない」というセカイ系の悪いところを本領発揮してしまった展開で苛立ちは最高潮に……
という感じです。

環さんの感情が爆発するシーンも、「内心の言えなかった本音」ではあるのだけど、それがあまりにもあっさりと取り憑かれていたから言ってしまっただけかのように描写され、しかもあっさりと和解できてしまったように見えて、これは自分自身の体験ではないのですが、震災でそういう関係になった人に思いを馳せてしまいました(これは実際周りに複数いて、上手くいってる人もいますが、お互いにまたはどちらかが我慢して体裁上は関係が続いているだけのパターン、本音が爆発して険悪になるパターンもあります)

日記のシーンについては、黒か白か、また「黒く塗りつぶす時間あった?」というよりは、「思い出したくない記憶としての塗りつぶされた日記という描写なら、日付いる?」という感じで、これは繰り返しになりますが「それそのものを描写しなくても伝わるものはあるしそれを新海誠監督はやれるはずじゃなかったのか」という感覚です。

 

▼思考実験

 

思考実験として、すずめ〜で扱われる災害が仮に自分の経験したことがない別のもの(事実、創作問わず)だった場合、つまりエンタメ作品として純粋に評価することを想像した場合(この仮定を想像することより、震災を自分が体験してないと仮定することが難しいのですが)、やっぱりすずめ〜は自分基準評価では「名作」か「駄作」かで言えば駄作だと思います。
震災抜きに本作を見た場合に、新海誠監督は相変わらず「セカイ系」の悪しき部分、具体的には「私とあなたの物語に終始するご都合主義」を脱却できていないように感じたからです。
良い意味でも悪い意味でも「セカイ系」と評される新海誠監督なりの思考結果なのかもしれませんが、すずめ〜は過去作よりもかなり意識的に「わたしとあなた、以外の人々との触れ合い」を盛り込んでいるように感じていて、しかし、物語の根幹がセカイ系であることは変わっていないので、ここに絶望的な相性の悪さが出てしまったのでは、と。
自分の震災の話に戻り、また、絡めると、名作要素の「見ている自分自身ではないのに、登場人物になったかのように共感できる物語」が描けておらず「ただ、登場人物が1人2人で本人起因の偶然から危機に立ち向かい、解決し、2人が幸せになった、ただそれだけの物語」のように感じ「鈴芽は偶然の出来事から結果的に救われたけど、他の、あの世界にもいるであろう救われていない人はどうすれば……(そして、現実の震災を明らかにそのまま扱った以上、こちらの世界にもそういう人はいる)」と感じてしまったのです。

上手く伝えられているかわかりませんが、純粋な作品としての失望と、震災の扱い方に対する失望と、両方であるということが伝わりますでしょうか。

 

▼「分断」「当事者/非当事者」について

 

結局は「いろいろな人がいる」というところに帰着するのかなとは思いますし、自分の「致命的な断絶」は極論なのかもしれませんが、新海誠監督が崖の向こう側の人間だった(ように作品を見る限りは自分は評価せざるをえない)のは、新海誠監督のそれまでの作品が好きだった自分にとってはショックでした。
とはいえ、他の「好き」にも言えることですが、これで「ファン辞めます!」とか「過去作含めて新海誠全部ダメ!」とも思わないので、新海誠監督には懲りずに(?)アニメを作り続けてほしいなと思っています。

 

新海誠監督の思い

 

入場特典だった「新海誠本」、また、他のインタビュー等を見た限り、これが新海誠監督なりの現時点での向き合い方、伝え方だったんだろうということは否定できず、それゆえに、自分としては勝手に期待していた立場ではありますが、残念という気持ちです(理由は上述のとおりです)。

 

※ここからは基本的にはやりとり初期の「取材対象者を掘り下げるための質問に対する答え」です(一部新海誠監督の話もあります)。なので、自分の好きなジャンルの話とか作品の話とか創作に対するスタンスとか、自分自身を改めて見つめる作業のような感じで、恥ずかしくもありますが、一応そのまま掲載します。ここから掘り下げる形でやりとりが続き、最終的に上述のような回答になりました。(本当に初期のやりとりの個人情報的な部分、被災体験、被災場所などのやりとりについては除外しています)

 

▼創作作品について

 

好きです。作品媒体もジャンルも基本的には問いませんが、最近は小説や漫画はあまり読めておらず、映像作品が中心です。

 

▼好みの方向性について

 

特に「シリアス」「暗め」「ミステリー」が好みですが、「ギャグ」「明るめ」「王道エンタメ」も見ます。

「なろう系」は「ご都合主義が過ぎる」と感じて避けがちです。
恋愛系も積極的には見ません(王道ほど構造がベタに見えるから)。

 

▼オールタイムベスト

 

本気で考えたらこれだけで一晩かかりそうな質問ですが、影響度合いでいうと
・アニメならエヴァンゲリオン(TV版、劇場版、新劇場版全て)
・漫画=レベルE冨樫義博
・小説=アルジャーノンに花束をダニエル・キイス
・日本のドラマ=「ケイゾク」「SPEC」
・邦画=容疑者Xの献身
・洋画=JOKER(LEONと悩む)
でしょうか。

 

▼ドキュメンタリー、ルポルタージュについて


好きです。
「ザ・ノンフィクション」はよく見ます。 しかし、ひねくれているためか、「見えてるものは取材対象に対する切り口のひとつ(見え方のひとつ)でしかない」と思っていますし、映像の場合特に「カメラが回っている時点で素はありえない」と考えてしまいます(隠さなくてもカメラを意識させず真の本音で語らせる取材能力に取材者のセンスが出ると思います)。

 

▼リアリティについて


個人的にはリアリティはリアルでなくて良くて、「現実」と「現実感」は別で、「現実感」が大事と思っています。ここらへん、言語化が難しいですが、「説得力」「ハッタリ力」「勢い」という感じでしょうか。

 

▼新海監督の過去作の災害表現について


他作品の災害表現と同様にすずめ〜ほど気にはなりませんでした。
新海誠監督が震災の影響を受けた上で意識的に表現したものであっても、震災そのものではない比喩であるうちは自分自身としてはエンタメとして消費できた感があります。​
(「比喩、創作ならエンタメとして消費できる自分」という葛藤は、震災に限らずあります。極端な例ですが「身内が密室トリックで殺された人は密室トリックミステリを楽しめないだろうな」とか)

 

▼すずめ〜の場合

 

震災の被災地そのままの表現や地震のアラート演出を経て、物語終盤の日記の日付が3月11日である点が、自分の中ではわりと致命的で「超えてはいけないライン」だったように思います。
「震災の素材化に対する残念感」はあるのですが、それ以上に「今までの新海誠監督なら"隕石衝突"や"止まない雨"という"ないことではないがある種のファンタジー"で間接的に表現してきたはずという残念感」という感じです。

 

▼実話と虚構のバランスについて

 

見た人が明確に元素材がわかるというだけで、そもそも話の軸がファンタジー(虚構)であることはわかるので、「新聞記者」の問題や「感動の実話!と宣伝される作品」とはベクトルが逆で、「実話に虚構を混ぜ込まれた残念感」ではなく「虚構に実話を混ぜ込まれた残念感」なのかなと思っています(ここらへんも言語化が難しい……)。
創作作品に「リアルでなくてもリアリティがあれば良い」と思いながら、すずめ〜には「そこにリアルはいらない」と思っている自分がいて、そして結果的に「リアルが混ぜ込まれたことで(自分にとって)リアリティが失われてしまった」ということなのかな、と。

 

▼他作品について

 

【震災以外は(完全/部分的)創作】は「かつおNHK)」「あまちゃんNHK)」、【震災の実話を元にした作品】は「河北新報のいちばん長い日(テレビ東京)」「ラジオ(NHK)」などを覚えていますが、これはある意味内容が逆に自分にとっては悪く言えば「無難」、前向きに言えば「誠実」だったからかもしれません。酷いと感じたはずのものは結果的に忘れてしまっている不思議。
(自称「ドキュメンタリー」ですら、後に仕込みがバレたりしてる酷い世界なので、意外と淡々と見てた気もします。それだけにすずめ〜に対する自分の感情は我ながら驚いています)
【震災は出てこないが影響は受けたと想像できる作品】は、シン・ゴジラが凄すぎて、他の震災後の作品も、意識的にせよ無意識にせよ影響は受けていると思うのですが、これも沢山あったはずの酷い作品は結果的に覚えていません。震災そのものが出てこないことにより、結果的に自分自身はエンタメとして消費している作品はあると思います。

 

▼「断絶」について


自分自身も口では「諦めた」と言いつつ、ずっと模索しています。一緒に模索してくれる人、共感してくれる人もいる一方、他の人も過去の実体験が生きているのかなとネガティブに思ったりしてしまいます(他の災害の経験者を自称する人でも、自分からすると「わかってない」と感じてしまう人もいます)。
また、自分がすずめ〜を見て、感想を書いたあと、他の人の感想を見て回って、単純にエンタメ視点で絶賛している人を見るとモヤモヤしてしまいます(自分のように素人のネットの落書きならモヤモヤで済みますが、プロライターでそういう人を見ると「浅い!軽い!わかってない!」と叫びたくなります)。
これは想像でしかありませんが、新海誠監督の狙いを都合良く解釈するなら「やっぱりみんな忘れてるよね?(だからストレートに描きました)」ということなのかなと思ったりもします。

 

▼新海監督の過去作について

 

過去の長編作品は個人制作の時代から全て見ています。(ショート作品やCM向け作品はチェック漏れがあるかも)
個人的評価は良くも悪くも「セカイ系」の人で、セカイ系特有のご都合主義がありつつも、そのご都合主義を圧倒的に美しい描写と、ファンタジーやSFの設定、「私とあなた」にひたすら焦点を絞ることで(ここはセカイ系の良さ)「創作=虚構」でもリアリティのある物語を表現できる人、創作の可能性を拡げることができる人、その可能性の到達点が現時点で「君の名は」ではあり「天気の子」である、という認識です。

 

▼他の表現作品で東日本大震災を描いたもの

 

シンゴジラは、個人的にはすずめ〜から受けた「軽さ」の印象との比較(重さ)として、真っ先に思い出した作品です。
オリジナルの「ゴジラ」の設定自体もあるとはいえ、「基本的にコントロール不能な大災害」「物語を畳む都合上の解決策に対する納得感」「それでもラストカットでコントロールを認めない姿勢」など「震災そのものは扱わないが、確実に制作内容が震災の影響を受けたであろう作品」の中では個人的にベスト作品です。
これらを対比した場合に、「人間がコントロール可能なもの」「しかも1人あるいは2人が」「結果、勝手に2人で解決して2人だけが前を向く」(ように自分は感じた)すずめ〜は、どうしても「軽い」と感じてしまったのです(ここが前述の「セカイ系のご都合主義の悪いところ」です)。

おかえりモネは申し訳ありませんが視聴しておりません。

他の「震災そのものを扱った作品」については、震災以外は完全創作、震災の実話を元にした作品、震災は出てこないが影響は受けたと想像できる作品など、それなりに見ていますが「これはちょっとファンタジー(創作)が過ぎる」と感じることはあっても、すずめ〜ほど「これはダメだ」と思ったことはありません。「実際に見た人と間接的に知った人の差」に対して諦めの感情がある自覚もありながら、それでも「これはダメだ、言わずにはいられない」と感じたという点では、すずめ〜はある意味凄い作品だと思います(商業作品としては褒めてます)。

書きながら思い出したのですが、あまちゃんの「津波そのものは描かず、その光景を見た人の表情で伝える」手法は、作る人(宮藤官九郎氏)の凄みを感じました。