あの震災と真正面から向き合ったにしては、あまりにも"軽さ"が際立った「すずめの戸締まり」

新海誠監督作品ということとあらすじ以外は、ほぼ事前情報無しで見ました。
東日本大震災に影響を受けていないクリエイターはいないと思いますし、新海誠監督も間違いなく影響は受けていると思いますが、物語の中で災害表現を扱うことはあっても、ファンタジー的、SF的な要素に置き換えて表現されていたこれまでの作品から一転、本作は東日本大震災がかなり意識的に素材になっていて、オープニングの夢の中の光景、序盤から頻繁に鳴る緊急地震速報のアラートなど、「ファンタジー的な要素への置き換えではなく震災そのもの」が表現されているのですが……。
その結果として、物語の中の「ファンタジー要素」である「大地震や大災害の原因の設定」「その原因を人が、ましてやその仕組みを知る1人、あるいは数人が抑え込める設定」に対するモヤモヤ感が残ります。
自然や神に人類が立ち向かう物語、その結果人類が最終的に勝利する物語は創作ファンタジーのある種の王道でもありますが、現実にあった震災を明らかに意識的にそのまま下敷きにされると、見る側の意識も変わってきます。
「とは言ってもそもそも全部が創作でしょ」と思おうとしても、本作では災害描写、被災地描写がかなりそのままの形で描かれていて、ファンタジー的な置き換えは行われていません。
何より致命的だと感じたのが、終盤、子供の頃の絵日記が登場するシーンでそのページ以降真っ黒なクレヨンで塗りつぶされている最初のページの日付があの日である点。
日付まで明確に同じ描写をしなくても、序盤中盤で東日本大震災が素材になっていることははっきりとわかるはずです。素材そのものを使わなくても、それを意識させる表現ができるはずなのが、創作、ファンタジー、アニメーション、そして新海誠監督の本来の力であり魅力ではないのか……と。
また、本来物語に緩急をつけるための「軽さ」が悪目立ちしているのも気になってしまいます。
エンタメ作品であろうとしたためか、序盤中盤終盤、隙あらば随所に挟まるゆるい会話シーン、素人っぽい(そういう演技の)カラオケ歌唱シーンは緊張感を削ぎますし、創作の中で基本的にはどうしても必要な「ご都合主義的に動く人々」「ご都合主義的に優しい人々」も本作で多数登場しますが、本当にご都合主義に見えてしまいます。
東日本大震災で作中の主人公と似た体験をした私にとってあまりにも重すぎたというのはあるにしても、とにかく全体的に軽い印象になってしまっている感は否めません。
これはあくまでも私の感想であり、同じ体験をした人でもまた感想は違うのかもしれませんが、震災以降ずっと感じていたものの最近は忘れていた「あの日、あの海を、あの町を、目の前で見た人と、テレビの画面越しに見たり伝聞で聞いた人とは、捉え方の致命的な断絶があるのではないか?」という気持ちがまた蘇ってしまいました。
災害描写、アラート描写などに対する配慮は個人的には他の表現も含めて原則不要(子供への配慮は必要だと思いますが、それも周りの大人がコントロールして場合によっては説明してあげることが大事だと思っています)だと考えているので「表現者が表現したいものを表現したうえで、見る側がそれに共感できるか、容認できるか、肯定できるか判断すべき」と思いますが、「新海誠監督が表現したいものを表現した結果」がこの作品というのは、私は残念でした。
私の勝手な想像上のおこがましい願望でしかありませんが、新海誠監督には、もっと創作、ファンタジー、アニメーション、そして見る側の力を信じてほしいなと思います。信じることができれば、こんなにも素材そのもののストレートな描写をしなくても、伝わるものはあるはずです。